介護士の本音と日常

41歳が考えた事、感じた事を書くだけです。なにか発見があるかもしれない。

『大変な時や失敗からは得ることは多い。無理に立ち向かわなくてもいいから、適切な逃げ方をしたほうがいい』

今日も朝起きて、顔をあらい何をするのかを考えている。午前中は残った仕事を少し片づけにいって、午後は勉強をしたり本を読んだりするか。好きな時間を過ごさせてもらっているわけである。その分頑張ってきたので良いかと思いながらも、これまで大変な思いをしてきたという、特に根拠のない自信を持ちながら過ごしている。仕事では理不尽な事を言われ続け、お客様の為ではなく、働いている人間のために仕事をしていたし、タイムカードを切った後に残業をしていたのである。結婚してからは自分の為ではなく、家庭のため子供の為と言い聞かせながらせっせと洗い物をしたり洗濯をしたり、掃除をしたりとやってきた。離婚しているのでもう他人なのであるが本当によく言われたのが「あなたのために言っているんだから」といたらない事を言われる日々であったように思い返している。「ああ、あの日々は何だったんだろうか」と空しくなる一方であの時期が無ければ「今の自分はいないなあ」と深く考えたりするのである。人は楽な時にはそこまで深くモノを考えたり、どうにかしようと試行錯誤をしようとしないものである。そう思うと、元妻に関しては深い心理的には大変な思いをしているという感覚は無かったのかもしれない。大変だと思っていればもっとうまくいく手段だったり、何かを考えたりして少しは家庭環境が良くなったのではないかと考えてしまう。こう考えることが世間ではモラハラ夫だといわれてしまうかもしれないが…どうみてもモラハラを受けていたのは僕ではないかと、過去の自分を遠くから見つめて少しかわいそうになってくる。とはいっても、大変なことからは人間は逃げたいという感覚もなくなって「いやだ、いやだ」と思いながらもその場面からは逃げられなくなってしまうのである。ある種の責任感であり、外部からの洗脳のようなものである。いかにして責任感を持ちながら誰からかの洗脳されているふりをして振る舞うかというゲームなのかもしれない。善と悪というのは表裏一体で、善だと思って行動していたことが、相手にとっては悪という事になるのである。結婚当時の話になるが買い物に出かけてかえると「そんなにやらないでよ、周りにこき使っていると思われたら困るから」という言葉である。何てことでしょう!素晴らしいリフォームが完成したのである。善から悪にリフォームされたのである。僕自身は大きな荷物を運ぶのは大変だと買い物を買ってで見れば、相手にとっては余計なお世話になるのである。まあ、かといって買い物すらやらないと「何もやらない夫」という事になってしまうのである。そういう矛盾に気が付きながらも、それでもやり続けるというタフさはその時に身に付いたが、代償として心は傷だらけになった。最終的には現代文明のありがたいネットスーパーが私の代わりとなり、買い物という役割からは解放されたが。ネットスーパを使っていての元妻の言い訳のような事を聞かされることになる「寝ながらやってたから、間違って多めに注文した」「時間に間に合わなかったんだけど、ほんとに使えない」などと言われる始末である。そんなの僕の知ったことではない。そういう分けで元妻はとにかく誰かのせいにしないと気が済まない性格なんだと知ってはいたが、改めて知る事となった。つあっているときは知らないふりをしていたが、結婚して距離が近くなると見えてくるのである。逆をいえば僕の事も見られていたのである。人それぞれ適切な距離感というものがあるという事も学んだのである。ともあれ、大変な時にこそ何かを得る機会ともいえるので、逃げる前にそれなりに立ち向かってみるのも一つの選択肢だと思うのである。立ち向かい方はそれぞれだろうが、誰かを使役して苦境を乗り越えるとか、誰かのせいにしてから逃げるというのはやめた方がいい。どんな形でもいいので、立ち向かった後に逃げるようにしても何かは残るのである。