介護士の本音と日常

41歳が考えた事、感じた事を書くだけです。なにか発見があるかもしれない。

『帆に風をうける。言葉の風、行動の風。』

 自分の行動の行動の元となるものは、他人の行動だったり言葉である。生物でも物でも他からの影響を必ず受けている。

 

 自分のしたいように生きたい、自由に生きたいと思っていたし、他人の事なんて知らないという気持ちの方が大きかったと思っている。何かの影響を受けることは必然であるので避けられないのだったら、何の影響を受けるのかという事くらいは自分で決める事しかできないとは思う。

 

 自由というのは何の影響を受けるかを選ぶことでもあるかもしれない。

 

 子供の頃から色々なモノをみて選択する力をつける事も大切だと思います。

 

 人生は船旅のようなものと言われます。

 

 「どういう言葉や行動の風をうけて、どんな目的地に行くのか。

  風を選ぶのも、帆を広げるのか、たたむのかも自分次第」

 

 「港に着いたら休んでもいいし、すぐに出港してもいい」

 

 どうしてこんな事を感じたのかというと、今の世の中は情報がおおすぎるのです。動画や画像にSNSだと沢山のモノがあります。何だか溺れてしまいます。初めは楽しいけどどんどんと消化しきれなくなって苦しくなる。そんな風に溺れさせるのも他人の影響ですし、行動を操作されているようにも思えます。「楽しいだろ」とささやくように誘導されているようにも思うし、人の行動は結構簡単に操作できるんだなあと怖くなる感じもあります。

 

 昔も新聞でたきつければ国民意識が戦争に向かったように、人の行動というモノはかなり簡単に操作できるみたいです。操作される事が自分の信念であれば問題ありません。何となく他から動かされていると疑問に思ったら抜け出すチャンスかもしれません。

 

『足るを知る事。コップの大きさを小さくしました』

 職場で利用者さんへお茶やコーヒーを配っています。食後だったりおやつの時間です。ふと「このコップのサイズでは小さいのでは」とおもったのです。普段僕は300ml位入るコップを使っていますが、仕事場で使うコップはぎりぎり200mlが入る位のカップです。

 

 いっぱいいっぱい入れるとみっともないので150ml位を入れて配る事になります。「こんな量でたりるのかな」と考えていましたし、300mlのコップを使う習慣だったので、半分しか入っていないという感覚がありました。しかし、150mlって思ったよりも量があるし満足できる量なのかもしれないと気が付きました。

 

 確かに、缶コーヒーも180ml位です。ということはこれまでの僕は大きすぎるコップを使っていたのかもしれない。「あ、少ない量でも満足が出来るかもしれない」とかんがえなおしました。

 

 少ない量でも満足できるという感覚は大切かもしれません。「これで満足」と欲張らない事の練習にもなるかもしれませんね。

 

『仕事モードと休息モードのギアの切り替え』

 仕事の日は朝起きてから段々と仕事モードにギアを上げていく。仕事が終わったらだんだんと休息モードにギアを落としていく。

 

 こういう切り替えが大切だと何となく気が付きました。これまでは仕事がおわっても何だか休息モードににも切り替わらず、帰りも急ぎ足で帰ったり何だか落ち着かないような過ごし方をしていました。

 

 電車の帰りでも何だかせわしなく急いであるいていたと思う。「あ、何だか仕事と休息の切り替えがうまくないな」と感じました。

 

 毎日ではなくてもいいからリラックスできる音楽をきいたり、ゆっくりと歩いたりしてだんだんとギアを落としていきます。それまで考えていた仕事の事は頭から切り離すようにします。

 

 ゆったりとしないと仕事が続かないかもなと思ったから余計に気になったことなのかもしれません。

 

『ジブリ作品との出会い「コクリコ坂から」 海ちゃんはどうしてカルチェラタンの掃除を提案したのか』

 コクリコ坂を観て感じたこと。僕の感じた事で映画の本来の意図とは全く無関係だとは思いますし、僕自身の心境も影響していると思います。

 何度も見ていますが、発見があったり無かったり…それでいいやと思いながら付き合っている作品です。

 

ネタバレがあるのでご了承ください。

 

 全学討論会の時に風間俊が舞台で叫んだ言葉

「古くなったから壊すというのなら、君たちの頭こそ打ち砕け」

「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか」

「人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか」

「新しいものばかりに飛びついて歴史をかえりみない君たちに未来などあるか」

 

 そこで海ちゃんはハッとし何かを感じ取ったのか。

 

 父親を亡くしている海ちゃんにとって、カルチェラタンが取り壊されるという事と、父親の記憶をないがしろにするという事が同じような気がしたのかもしれない。

 

 どうしたらいいのかと考え、カルチェラタンの掃除をし存続することで、父親との記憶をないがしろにはしないという強い意志の表れだったのかもしれないです。

 

 

 

 

『少ないモノを大切にする。少ないから大切に出来る。面倒なモノを大切にする』

 何といいますか、大切なモノはたいてい面倒くさいモノが多いです。

 

 人とのつながりも予定を開けたり、こまめに連絡をとったり、出かけたりしないといけません。面倒だから大切に出来るともいえるかもしれません。

 

 人それぞれ抱えられるモノの限界があるので、だんだんと絞っていくことになるののかな。若いうちは色々と集めて、その中からどんどんと絞っていくって感じですかね。

 

 

non117.com

 

『90歳にとっては40歳なんてまだまだ。戦争を肌で知っている世代は少なくなっている。』

 仕事をしていて90歳を超える方と話をすると「まだまだ若いでしょ」「私の半分もないんだから、これからですよ」「あなたより若い人はもっとよね」と冗談をまじえながら話をした。何とも言えない実感のこもった話でした。

 

 年を重ねるととんでもなく色々な事を経験します。そういう人達から話を聞くと今の悩みや焦りというのがとても小さなモノに感じます。90歳にとって40歳なんてまだ折り返しもしてない、20代なんて始まりにしか過ぎないという事ですね。

 

 例えば、20代で学生時代の割合が80%位になりますが、90代にとっては20%位です。割合が多いのでどうしても今しかないとか、どうしようと思いがちになるのかもしれません。

 

 介護の仕事をしている裏の意図である、高齢の方の話を聞く事が出来るというのが実感でき、人生まだまだと以前に書いたが本当にそうだよなと実感した出来事でした。

 

 戦争という歴史を肌で知っている世代はどんどんと少なくなっているのだとも感じます。今しか聞けない話がいっぱいあるはずです。

 

『時短ではなく、やらない』

 時短家電、家事の時短という事が目的になりがちかもしれません。

ここは思い切ってやらない事を増やすというのはどうかという事。

 

 スマホを何となくいじる時間、動画をダラダラ見る時間をバッサリと切り捨ててみる。そうすると無理に時短をしていた時間を長く取る事が出来ます。

 

 時短家電で家族との時間を作るというよりは、節約した時間よりも、大切にした時間を過ごせるかもしれませんね。

 

 正直、動画を観たり、本を読んだり、ゲームをする集中力が1時間くらいで切れてしまうので余計にこうかんじるのかもしれない。動画を見ていても途中でパッと止めて次の日に見たりしても気にならなくなった。欲張らなくなったのかなと。何を大切にして生活するか少し分かってきたからかもしれません。

 

 早めに寝ることにしていると時間をどう使うかを考えますね。そもそも、時間の使い方を考えている時間もやらない事にしたほうが良いようにも思えてきてしまいます。

 

『「モノを捨てること」と「データを消すこと」は一緒なのか』

 ある写真を持っている時に、紙の写真を「捨てる事」と、データの写真を「消す事」は一緒の感覚なのか。

 

 どちらの場合も処分という事では一緒だし、何も変わりがないように思えますがどうかんじるのか。

 

 捨てるという行動ではデジタルでの0、1ではない気持ちがあるかもしれません。データは一瞬で0になりますが、紙としての写真は急には消えません。自分の手でゴミ箱へ捨てる必要があります。

 

 何かしら体や心へ与える影響も違うように感じまが、今は正直わかりませんね。

 

 

『40代ですが人生まだまだ。何も知らないですね』

 20代の頃は40代になったら色々な事を知っているんだろうなと勝手に想像していました。実際にこの年齢になって実感するのはまだまだという事だけです。

 

 20代の自分から見た40代の人たちは何だかうまくやっているよなとか、あんなではいかん等とか思っていました。

 

 今の僕と同じ年代の頃の父や母の事を考えると想像よりも知らない事がおおかったんだなぁと少し身近に感じます。それでも大人としてしっかりしているとは感じていました。

 

 親とはいえ40代の頃、今の僕もそうですがやりたいこと、遊びたいこと、やらなくてはいけない事を色々と抱えて悩んでいたはずです。

 

 人生が20代で決まってしまうような感覚になっていましたが、正直これからって感じですね。

 

 僕が10歳の頃は父母は45歳、43歳くらいです。ほんと「なんて事でしょう」です。もちろん、世の中の精神的な年齢の成熟の仕方も変化するとはおもいますが、それにしても若いです。

 

 まあ、大変なことの方が多いですがその中にチョット良い事があるかんじです。介護の仕事で高齢の利用者さんから「大変なことばっかりだけど、その中に良い事があるんだよ」とふと話をしました。なんというかどこかの自己啓発本でよむよりも重みのある言葉でしたし、僕なりの答えの裏付けをしてもらえましたね。お金では得られない言葉です。

 

 僕なりの生き方としては、もしかしたら「こうかも」という仮説を色々なもの、人と関わって確かめていくことが人生なのかもしれません。

 

『沖縄のお菓子 おすすめの「ちんすこう」』

 僕の好みの話になります。沖縄のお菓子「ちんすこう」です。

 

 中学、高校、大学と沖縄に住んでいたのでなじみのあるお菓子です。母親が沖縄出身なので子供の頃から沖縄には結構いっていたけど、まさか自分が住むとは思ってませんでしたが。就職して東京にいますが、やっぱり沖縄が好きですね。沖縄という土地というよりは、関わった多くの人がいる、青春時代を過ごしたという時間はおおきいかもしれませんね。

 

 という事で、大学の時に好きな「ちんすこう」を見つけようと突然思い立ち、色々なメーカーのモノを買いあさりました。

 

 カリッとした食感、サクサクとほぐれるようなもの、粉っぽい風味のもの等々あります。価格も色々とあります。新垣の「ちんすこう」も有名ですかね。あとは「ちんすこうショコラ」もありますが、新しいタイプですね。

「ちんすこう」と言っても色々とあるんだなあ、と知ったのです。

 

 色々とたべましたが、一番好みに合ったのは「南国製菓」さんの作っているちんすこうです。程よい硬さとほぐれやすさが僕にはマッチしましたね。味も色々あって楽しいかんじです。僕の知っている限りでは、はじめに色々な味のモノをだしていたのは「南国製菓」さんだったかもしれません。

 

 嘉手納に住んでいた頃に水釜(地名)に工場があったような記憶があります、高校の頃にふと見かけたのをおぼえてました。近くにサンエーがあったかも。

 

 ということで、今もお気に入りの「南国製菓」さんの「ちんすこう」がおすすめです。

 

 

 

 

 

 

『まぁ、それは気分の問題ですよ』

 何となく職場で気づく整理されていない所、何だか細かいホコリや髪の毛が落ちている階段、剥がれかけているテープ…全部が雑音のように入ってきます。

 

 そういう事の積み重ねでプチストレス、プチ疲労がたまっていきます。僕の場合だけかもしれませんが、気分の問題です。

 

 数分で解消できるのでサッとふき取ったり、整理することでプチ達が消えていきます。数分のコストで得られることは多いです。

 

 まあ、ただの気分の問題ですけどね。

 

『文章は書き方、伝え方で変わる気がしました』

 長く書いている人にとっては当たり前のことかもしれません。

 

 色々とブログにある事ない事を書いていますが、さっきふと感じたことは文章の内容の伝え方で何を伝えたいかがあっという間に変わるという事です。タイトルというのも大きな要素かもしれません。

 

 例えば前回書いたもので、「介護と医療の認識」についてです。

少しタイトルを変えると「こだわりのある介護を受け入れてもらいやすい伝え方」というようになるかもしれません。どんなイメージで文章を読んでもらうかを、上手く作ることで文章から与える印象を操作できるかもしれません。

 

 書いた内容の一部を切り取ってタイトルをつけてもいいかもしれません。章立てしていくという事ですね。

 

 書くということは一朝一夕では身に付かない技術ですね。

 

『介護と医療を家族はどう区別しているのか考えた』

  医療のことは自分では出来ない、介護のことは自分でも出来るという大きな差があるのかもしれません。

 

 もちろん医療に従事している、看護師、医師である場合は話が変わるかもしれないですがほどんどの場合が当てはまると思います。

 

 誰かの介護が必要になった場合に自分でになっている事を他の人に任せます。例えば訪問介護、施設入居での対応となります。

 

 はたしてすべて自分でのこだわりややっていたことを他の人に任せられるのか、可能かという事です。「このお菓子がすきだから毎日おやつにあげてほしい」「毎日おふろにはいってほしい」「あるいてトイレに行かせてほしい」等の要望もあるとおもいます。

 自分の予定がなければ、家なら時間の制約なく対応はできます。ただ、他の人に任せるという事は時間の制約が出てくるという事です。という事は家族がどれくらいの時間をかけてやっているのかという情報も必要になります。それに基づいて他の人に頼むという考え方も必要になってくるかもしれません。そうすることで、他の人にも頼みやすくなります。漠然と○○をしてほしいという事だけではどうしてもわかりにくくなります。

 

 書いていて考えが整理されましたが、モノの頼み方も大切かもしれません。なんでもできるのが介護ではないのも事実だとは思います。逆にいえば何でも出来るともいえるかもしれません。(介護保険での範囲ですが…)

 

 家族の要望であれば、実際にはどれくらいかかるのかというのも体験してもらうのも一つの手です。時間、労力などを体感してもらう事で身近に感じ、イメージが少しわくかもしれません。

 

 介護の知識は医療の知識と同じく浸透していないにも関わらず、こだわりを伝えやすいという点で介護と医療の区別に大きな違いが生まれていそうです。

 

『介護 体調変化の時のチェックについて』

 介護の現場で働いていると、介護を受けている側の体調変化と向き合う事になります。歳を重ねた事による症状なのか、低栄養なのか、病気なのか等判断がつかなくなります。

 

 基本的にはバイタル測定(体温、血圧、脈、SPO2、呼吸数)をして、医療の判断をしてもらう事になるとは思います。

 あきらかな発熱、嘔吐などもあるとおもいますが、その前兆をつかめるかも難しいです。午前中は元気だったのに、急に発熱や嘔吐という事もあります。まあ、体調不良は突然くるので高齢者に限ったことではないですが・・・。

 

 介護者は生活を観ているので、看護師や医師の知らない情報を持っている場合もあります。その情報も大切になります。

 

 何となく普段と違う気がするという事に気が付いたときに、僕の場合は↓のように考えるようにしています。医療に役立つかは分かりませんが、看護師と仕事をしてきたなかで聞かれたこともあります、普段から意識していると良いかもしれません。

 

 

 

『介護してるが「自立、見守り、一部介助、全介助」どんな状態かの曖昧になる』

 介護の仕事をしていて何だか恥ずかしいですが、それぞれの区分が曖昧になります。見守り、一部介助ということがかなりあいまいになります。

 

 少し調べたのですが、食事のセッティングをして食べやすい位置にしたりするだけで一部介助、自分で食べれても自立にはならないという書き方です。

 

 介護認定の指標に基づいて区分に分けるという事を意識しないと、意味のレベルで会話が成り立たなくなるかもしれない。

 

 保険の申請でも本来は重い区分にすべきところが軽く評価されていたり、逆に軽くすべきところが重く評価されてしまっているかもしれません。

 

 介護ではすべてがルールや指標通りになるとは思いませんが、定めてある指標(ものさし)で判断できるようになっていると良いかもしれません。

 

 ご家族の認識とルールの物差しがちがってクレームにもなるかもしれません。「ある物差しではこうなので」と理由付けができると対処しやすいかもしれないですね。

 

 勉強し直しですね。

 

認定調査についてのサイトです。読んでいくと色々と曖昧にしてきたことの整理が付きそうです。

siawase.jp